立春の今日も冬の優しい空が広がる
穏やかな一日でした。
夕暮れには空が淡い水色とオレンジに混ざり合い、
なんとも優しい世界が広がっていました。
京都の街も、鴨川も、
街の外側を囲む低いなだらかな山々も、
道ゆく人も、
みんな淡く優しい光の中で、
世界はこんなにも穏やかで美しいのだ、
なんて優しい世界なのだろうとジーンときました。
神様、宇宙の創造主は愛で、
愛である存在が、
厳しく汚れた世界を創造するはずがないですよね。
でも以前の私は、
世界は理不尽で、自分に厳しく、許されず、
社会も、人も、どこかで
みんないつ私を傷つけるか分からない
敵のように感じていて、
弱みを見せてはいけないもの、
油断すると背中を切られるもので、
だから人に対しても厳しく、
抜かりなく目を光らせ、
ちょっとでも自分を傷つけてきそうな様子を見せたら、
自分が大きな被害を受けないために、
先手を切って反論しなくては、自分を守らなくては、
自分が正しい、間違っていない、
おかしいのはそっちだ、と、
分からせなければ、とすら思っていました。
今振り返ってみるとツッコミどころが万歳で、
どんな色眼鏡をかけていたのだ!と
自分に笑ってしまいます。
でももちろんその時は大真面目で、
本当に世界はそんな場所だっ(と思ってい)たのです。
世界が自分にとってそんな厳しい場所だったのは、
自分が人や世界を信頼していなかったから、
自分や人を信じていなかったからで、
不信感の塊だったなと思います。
それは、そういう経験を何度かするうちに、
みんなそうかもしれないと思い込んでしまったのですね。
いつも自分は被害者で、
周りには加害者がいっぱいで、
自分は正しく生きているのに、
何も悪いことはしていないのに、
あの人は優しそうに見せかけて冷たい人だ、
あの人は卑怯だ、
あの人はいつも人を攻撃してくる、
あの人は自分のことしか考えていない、
あの人は理不尽なことを要求してくる・・・
そんな風に思い、
世界も人も、油断していると
いつ自分を傷つけるか分からない、と思っていましたし、
実際、
この人は、この場所は大丈夫だと思って気を許したら、
思わぬことで裏切られ(たように思い)、
どうしてこうなるのだろう、
私は何も悪いことはしていないのに、
真面目に人に迷惑をかけないように生きているのに、
ズルいこともしていないのに、と、
いつも自分は被害者のような気持ちでいました。
今思い出すと、
一体自分は何様のつもりだったのだろう、と
ちょっと笑ってしまいますし、
なんとまあ自分の狭い視野の世界で、
人や世界をジャッジしていたなぁと、
自分の未熟さに苦笑いです。
この「自分は正しい」「あの人が間違っている」
「もっとこうするべきだ」「あの人は卑怯だ」などの
人を攻撃する意識は被害者意識と表裏一体で、
この価値観、この世界観にいる限り、
どんなに素敵な人たちが周りにいても、
どんなに優しく暖かい世界にいても、
人も世界も厳しく、非公平で、安心できない場所になります。
それは周りや世界のせいではなく、
自分がそう見ているから、信じているからで、
自分がその世界を創り出しているからです。
その世界を変えたいなら、
周りを正そうとしても無駄で、
そうではなく、
自分がそれを創り出していることに気づいて、
自分が変わっていくことです。
(北海道 富良野 風のガーデンにて。)
ではどうやって変わるのか?
どうやってそこから出るのか?
どうすれば変わることができるのか?ですが、
それには、自分の根底にある不信感の奥にある恐れに気づき、
恐れの奥にある悲しさ、痛み、傷に気づき、
それを正面から受け止め、
更に、そこで終わりではなく、
その傷の奥にある最も見たくないものを見ることです。
恐れの奥にある悲しさや痛み、傷までは、
スピリチュアルなことに興味があり、
自分と向き合おうとする人なら
見る人が多いですが、
そこで終わってしまうと表面的で、
根本的な解決にはならないでしょう。
するとまた相手や場所を変えて同じように
自分が傷つけられる(と感じる)ような出来事が
繰り返されます。
例えば、誰かが自分を傷つけるようなことを
した、言ったとして、
(それも自分の根底にある価値観の反映で、
自分がそう捉えただけで、
自分の色眼鏡なのですが。)
怒りが湧いてきて、
あの人はひどい!と思い、
そして傷ついて悲しみ、落ち込み、ブルーになり、
でもそんな自分をどうにかしたいと思い、
自分の内面を見ようとしたり、
クリアリングで手放そうとして、
自分を傷つけた相手の言葉を手放そうとしたり、
傷ついた自分の痛みを手放そうとしても、
それはまだ表面的な部分しか見ていないので、
気分は少しマシになるかもしれませんが、
根本的には何も変わりません。
大事なのは、見るべきはその更に奥にあるもので、
そこには直視したくないもの、
認めたくない自分があるのです。
例えば、
人のせいにすることで、
「自分は正しい!」と自分の価値を守っているのですが、
でも本当の本当は、
相手が間違っているとかどうとかの問題ではなく、
ただ自分を否定されたと感じたこと、
認めてくれなかった感じたことで
自分が導き出した、
「やっぱり私は愛されない」という
世にも恐ろしいことを認めたくなくて、
(「やっぱり愛されない」は間違った思いこみなのですが。)
そんな惨めな自分は辛すぎて見たくなくて、
そんなことを認めたら自分は生きていけないから、
相手が間違っている、ということで
自分を守っている、ということもあります。
自分は正しい、あの人は間違っている、と、
人のせいにする時、
例えそれを口に出さなくても、心の中であっても、
あなたが間違っているとまでは言わなくても、
「でもこうすべきでは?」と、
正論を言いたくなるような場合でも、
(これも自己防衛あるあるですね!)
全てやっていることは同じで、
ただ自分の間違った価値観、思い込みから導き出した
結論の先にあるものを見たくなくて、
それを受け入れないために一人芝居をしているのです。
今のは一つの例で、
こうしたことは色んなパターンがありますが、
そんな奥の奥の見ていないことに気づき、
そんな自分がいることを認め、
それを癒し、解放してあげない限り、
世界も人も、ずっと自分に厳しく、不当で、
人は自分を都合よく扱ったり、
理不尽だと感じたりする世界から抜け出せないでしょう。
でも逆に言えば、
それさえできれば、
世界は優しく心地よい穏やかなものに変わります。
別に貯金を何千万円も貯めなくても、
人に自分を認めさせるための難しい資格を取ったり、
すごい肩書きを手に入れなくても、
独身でずっとパートナーがいなくても、
子供がいなくても、
若さや美しさを無理をしてキープしなくても、
カッコいい自分を演じなくても、
誰にも自分を証明しなくても、
でも人がいつも優しく、あたたかく、
世界は穏やかで美しい、
そんな毎日を生きられるようになるのです。
ですからやはり自分を深く見つめることは大事で、
間違った思い込みや古い価値観は
手放していくことが大事ですね。
クリアリングは自分でもある程度はできますが、
最初はどうしても視野が偏りがちだったり、
受け入れがたかったり、
クリアリングをすることに慣れていないので
難しく感じたりするかと思いますが、
そんな時は人の手も借りながら、
自分で向き合うことをしていくといいですね。
「もうこんな人生は嫌だ!」と思ったことがあるなら、
それはもうその世界、その価値観を手放す時です。
どんな世界に生きるかは、
人は誰でも、自分で選ぶことができるのです。
それには深い部分、認めたくない自分を、
勇気を持って覗き込み、
受け入れ、傷を癒やし、手放すことです。
それ以外の方法はありません。
それをやらなくてもいいですが、
やらないと変われないまま、
その人生をずっと生き続けることになります。
それは私たちの自由な選択に任されています。
でももし「もうこんな自分で生きるのは嫌だ!
安心感の中で、優しい世界に生きたい!」と思うなら、
本気で向き合ってみるといいですよ。
世界を変えるのは自分次第です。
それは素晴らしいことですよね!
だって神様次第や誰か次第だったら、
どうしようもないですが、
自分の選択次第なら、
自分がそうすれば人生を明日から変えることができるのですから。
「もうこんな歳だから変われない」
なんていうこともありません。
何歳からでも、自分と向き合い、
自分が生きたい世界、
安心感の中で優しい世界を生きていきましょう♪
世界中の人がみんな、
そんな世界で生きるようになりますように(^^)
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