少し前から、最近お肌の調子がよくなったように見え、
うれしいなと思っていたのですが、
どうやら視力が落ちていたようで、
コンタクトの度数を変えたらよく見えるようになり、
そうでもなかったとわかりました。笑
見えすぎないのもいいものですね〜。
そうにしか見えない時は、
自分にとっては確かにそれが現実ですから。
現実を直視しないで逃げるのは違いますが、
重箱の隅をつついて小さな一欠片の間違いや汚れなどを見つけ、
だから人生は厳しいとか、
この人はいい人の振りをしているとか、
現実は甘くないなどと
辛く人生を見なくてもいいように思います。
重箱やお弁当に詰められたおかずが焦げていても、
それが手作り感を感じさせてくれ、
ありがたいなと思うように、
人もちょっとズルいところや
いい加減なところなどがあっても、
人間らしいなと感じほっこりするように、
お弁当を縦にしてしまい偏っていても
(寄り弁と言うそうですね!)
お弁当があることがうれしいように、
クセのある性格でも、偏っていても、
世界が理想通りでなくても、
それもそのまま味わいで、
もっと大きな目で見ると
人も世界も人生も、豊かさや喜びに
気づくことができるように思います。
人生も、バランスよく一点の曇りもなく整っていなくても、
よく見たら苦しいことがある人生でも、
これまでなんとかなってきたのですから
ラッキーですよね。
そうして人生を振り返ってみる時、
いい人生に見えるか、辛く大変な人生に見えるかは、
自分の人生を見る視力や見方によって
大きく違うと思います。
本当に何があったかではなく、
その視力と何を見るかで変わります。
自分が心を開いていると、幸せをたくさん見つけられ、
自分は幸せだなと思いますし、
心を閉じていると辛く難しいことばかりが目に入ります。
事実がすべてよく見えればいいというものでもないですね。
(軽井沢 鹿島の森のカフェにて。)
前に、とてもうれしいことがあったのですが、
その数日後、それは私が思っていたのとは
違うことがわかりました。
昔なら、ぬか喜びだったと落ち込んだり、
そう勘違いさせた人にモヤモヤしたかもしれませんが、
その時はそうは思わず、
私が思っていたのとは違ったと気づいた時も
ガッカリもモヤモヤもありませんでした。
それ以上に、それを知った瞬間のうれしかった気持ちや、
それからしばらくの幸せな気持ちは
本当に私が感じた本物で、現実でした。
勘違いでも誤解でもなんでも、
私はうれしいと感じたのですから、
それは素敵なギフトだったと今も思っています。
ぬか喜びも喜びの一つで、
本当にうれしかった時には
うれしい波動になっていて、
私はそのひと時を生きたのですから、
ラッキーだったなと思いました。
事実が正しくよく見える目と、
幸せがよく見える目なら、
幸せが見える目のほうがいいなと私は思います。
別に自分を誤魔化して
幸せだと思い込もうとするわけではなく、
現実や夢、勘違い、誤解…すべて含めての人生で、
ただ一つ本当だと言い切れるのは、
私が感じたことや、感じたことによる波動です。
目には見えなくても、
形にも現実にもならなくても、
心がウキウキしたこと、
ドキドキしたこと、
心から幸せを感じたことは
私には本物です。
本当に現実になるのも、夢の中の出来事も、
もうこの境い目はかなりゆるく薄くなっているなと思います。
昔のように厚く頑丈な高い壁が隔てているのではなく、
薄いベール一枚で、
ほんの少しのピントの合わせ方次第で、
重なりながら存在しています。
現実だけをハッキリ見る視力ではなく、
あまりピントがきっちりしていないくらいの視力で、
心を開いて正しさだけでは見えない、味わえない
幸せを楽しむ人生に
移っていくのもいいなと思います。
私はそんな今に生きられることがうれしいですし、
いい時代になったなぁと思います。
明日も私が見る世界を楽しみたいと思います(^^)
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