先月、京都の比叡山に行った時、
ロープウェイから山の中に鹿を見かけました。
その鹿は凛としていて、とても美しかったです。
奈良公園などの街中にいる鹿とは、
また瞳や雰囲気が違うなと思ったのですが、
そう言えば以前、モロッコに旅行に行った時、
フェズやマラケシュの街中ですれ違うラクダやラバと、
アトラス山脈の中で見たラバ、
サハラ砂漠で見たラクダは違うと思ったのを思い出しました。
それはもう全く雰囲気が違い、
まず瞳が違いましたし、立ち姿や歩く姿も違いました。
どのラクダやラバも仕事をしていましたが、
砂漠のラクダは今日見た鹿のように凛としていて、
雄々しく誇りがあるように感じました。
山の中のラクダは肩が落ちたような感じに見え、
使われている、働かされているように見えました。
街中のラクダはそれぞれでしたが、
何と言っても砂漠のラクダが一番美しく誇り高く見えました。
これは私だけがそう感じたのではなく、
その時にそこでたまたま一緒に見た日本人ともそんな話になり、
やっぱりみんなそう見えるのだとわかり、
ラクダの雰囲気や表情の違いのモノマネ(!笑)などをして
その違いを話したのでよく覚えています。
京都で鹿を見て、その時のことを思い出しました。
自分で生きている、自分らしく生きている時、
動物は自然とその誇りから瞳が美しく深く、
凛とした立ち姿になるのだなと思いました。
何をしているかより、
誇りを持った生き方をしているかが現れるように思います。
これは人間も同じだなと思いました。
凛として美しい人は、生き方を自分で選び、
誇りを持って生きているように思います。
誰だって、自分らしくないことをして、
無理矢理それらしく在ろうとすると自分に誇りは持てず、
瞳の輝きは失われます。
同じことでも、
させられている、しょうがなくしている人(動物)と、
自分らしさの表現の一つとしてしている人(動物)では、
内から滲み出るものが違い、
それが体全体から伝わるものです。
また、人に使われるのではなく、
いろんな意味で「自分で生きている」人は、
(意識のお話です)
暮らしぶりがどうかによらず、
凛と存在感があり、瞳がしゃんとしていて、
その存在が美しいなと思います。
外側を取り繕っても、
周りと同じくらい豊かでも、
それは誤魔化せないなと思います。
モロッコでみた砂漠のラクダのように、
先日見た鹿のように、
自分らしく、誇りを持った生き方をしていきたいなと思います。
私たちはありがたいことにラクダやラバと違い、
売り買いされ生き方を選べないわけではないのですから。
あの日出会った鹿の美しさを忘れずにいたいなと思います。
p.s.
25日(金)から週末に開催するセミナーのため東京に行きます。
和歌山に帰ってくるまでの間は、
この週末のセミナー関係のメール以外のメールのお返事が
遅くなるかもしれませんが、
どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m
東京でみなさまにお会いできるのが今からとても楽しみです(^^♪
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