今日の午前中は小雨がパラつく静かな一日でした。
午後には前も上がり、雲の向こうに青空が顔を出し、
凛と澄んだ空気がとても心地よかったです。
14時ごろの気温は10度ともうすっかり冬の空気で、
今日は冬用のセーターにコートを出して着ていました。
最高気温が10度というのは、
関西人の私にとっては12月の感覚で、
今期最初の冬の空気です♪
久しぶりの冬の空気が新鮮で、
なんて気持ちがいいのだろう、
なんて美しいのだろうと、
一呼吸ごとに喜びが溢れ、
冬らしい薄曇りの空も、
霧が流れる街や山々も、
そんな中を飛ぶ鳥たちも、
刈り取りが終わった田んぼも、
全てが美しく、
全てが愛おしくて胸がいっぱいになりました。
愛おしいという気持ちは、
昔は何か特的な存在(例えば子供やペットなど)に対して
感じるものだと思っていましたが、
今は自然の美しさを感じていると
自然とそう感じていて、
それは空が愛おしいとか、
花がきれいで愛おしいなどのように
愛おしむ対象があるわけではなく、
例えば車を運転しながら外を見ていると、
特別きれいな景色などではなくても、
まるで初めて世界を見るような気持ちになり、
そのまま世界を味わっていると
ここにいるのだと実感し、
すると愛おしい気持ちがふわりと湧いてきます。
それをそのまま感じていると、
ただただ満ち足りた幸せの中にもうあるのです。
今日も買い物帰りに街の中を車で走っていると
そんな感覚になり、
愛や愛おしさって、
ただ自分の心が開いていれば、
愛する対象や、愛を感じさせてくれるものなどがなくても、
勝手に感じるものだなぁと実感しました。
逆に、どんなに愛されても、
どんなに美しいものを見ても、
どんなに大切な存在があっても、そこにいても、
自分の心が閉じていると
愛を感じることができません。
自分のハートで愛を感じることができないと、
どんなに暮らしが豊かだったり、
環境や条件が整っていても、
幸せだと感じることはできません。
それはとても辛いものです。
人が幸せかどうかは、
シンプルにただそれだけの違いだと思います。
幸せはそんなとてもシンプルなものですが、
でも人にとっては、
目に見えない、触れることもできない心を、
どうすれば開いていられるかがよくわからなかったり、
開いていたのにいつの間にか閉じていたりして、
こうすれば心を開いていられるという
誰でもいつでも使えるマニュアルや裏技がなく、
自分の心なのだけれど、
起こる出来事や人の言葉や態度、状況などにより
簡単に左右され、
コントロールできない厄介なもの、
難しいことのように感じます。
自分の心なのに、
うれしく感じたり、悲しくなったり、イライラしたりするのは、
いつも周りのせいで、
周りの人が優しいか、嫌な人かで自分の気持ちが変わり、
状況や経済的にうまくいっているか、そうでないかで
気分が変わり、
幸せに感じたり落ち込んだりします。
だから人が自分の都合のいいように、
自分がこうあるべきだと思うようにいて欲しいと思い、
嫌な気分にさせないでいて欲しいと思うものです。
でもそうはいかないので、
常に自分の気分は、人や周りに振り回され、
自分の心は他人や状況次第になっています。
これはよくあることですが、
でもこの状態だとしんどいですよね。
だって自分の幸せは周り次第で決まるのですから、
どこまで行っても不安定ですから。
でもそんな他人や周り次第の幸せから、
自分次第へとシフトしていくことができます。
その一つは、意識的に心を開いていることを
自ら選択して生きるということですが、
もう一つ大きく影響しているのは、
自分がどれだけ自分を許しているか、愛しているかです。
自分を許せない、自分を愛せないままで、
人を許したり、世界を愛したりはできないものですから。
(長野 軽井沢にて。)
自分を許せない、
受け入れられない自分がある人は多いです。
今のダメダメな自分、稼げない自分、
夢から程遠い自分、
何もできない自分、
優しい人、いい人ではない自分、
変わりたいのに変われない自分、
人を愛せない自分・・・が嫌いで、
そんな自分を許せない、受け入れられない、
愛せない、という人は多いです。
それは愛することに条件がついてるということですね。
「こんな自分なら愛することができるのに」というのは、
「こうではない自分は愛することができない」
ということです。
でも愛とは本来無条件で、
愛することに「こうであるなら」など条件がつかないものです。
ですから、自分を愛するには、
受け入れらないない自分をどうにかすることではなく、
そのままの自分を認め、
受け入れることです。
人に優しくできる自分や、
誰かの役に立てる自分、
夫として、大人として、親として
十分に稼ぐことができる自分、
妻として、主婦として、母親として
しっかり家事をする自分、
会社での仕事を十分にこなすことができる自分、
女(男)として愛される自分、
したいことを行動できる自分、
やろうと決めたことを頑張る自分、
素直で正直である自分、などなら愛せるけれど、
その逆の自分は受け入れ難く、
そんな自分はダメで、愛せない、というのでは、
いつまで経っても自分を愛することが難しいでしょう。
時々は愛せるけれど、
うまくやれない自分も人間なら当然あるもので、
そんな自分の時は自分を簡単に嫌いになり、
愛せなくなってしまいます。
そうして自分を否定し、受け入れないでいる限り、
自分を愛することは難しく、
自分を愛せないでいると、幸せは遠いのです。
ですからどんな自分でも認め、
許し、受け入れることはとても大事なことなのです。
これはなかなか難しいと感じるものですよね。
だって人間なら誰しも、
狡さや醜さ、卑怯さ、不誠実さなどがあるもので、
特に、普段善良な人である人ほど、
そうではない自分を見つけた時に
許し難く感じるものです。
それに気づいた時に、自分を嫌いになったり、
そんな自分はダメだと否定したり、
許してはいけないと思い、苦しくなるのです。
そんな自分を許したら、
よくないこと、正しくないことをOKにしてしまうようで、
それはいけないことだ!と、
きれいで正しくありたい自分が拒否し、
許さないでいることが正しいと思いますから。
でも、それでも
そんな自分を許すということは大事なことで、
そんな罪の意識や罪悪感は大きな壁ですが、
それは大きなチャレンジで、
それを超えると自分を愛せるようになり、
人も、状況も、経験も、世界も愛せるようになります。
そんな自分を、
どうやって、どう考えて許せばいいのか?と言いますと、
そんな自分が正しいと思わなくていいですし、
いけないことをした自分で良いということでもなく、
ただそんな自分も自分なのだと受け入れる、
ということです。
ピカピカにきれいなだけの自分ではない
ということを受け入れ、
狡さも醜さもあるけれど、
それが自分で、
そんな自分も今の自分にはあると認め、
でもここから少しでも磨いていこうとすればいいのです。
神様が許さないだとか、
相手が許さないだろう、といったことは
どちらでもいいのです。
神様や人に許されたいというのはエゴで、
ちょっと厳しい言い方かもしれませんが、
きれいでありたい自分の甘えです。
誰が許そうと許さなかろうと、
例えば自分がダメだと思うなら、
そのことに変わりはなく、
自分が自分を許す許さないに関係ありません。
例え神様や相手が自分を許さなかったとしても、
そんな許されない自分がいるということを、
自分が受け入れるだけです。
そしてそんな自分と一緒に、
自分を磨いていこうとするだけです。
自分を受け入れて許すというのはそういうことです。
そうしてどんな自分も見捨てず、受け入れ生きようとする時、
もう自分を愛していて、
すると心は開き、人や世界も愛せるようになり、
幸せを感じられるようになります。
幸せにある、幸せを感じて生きられるようになるのは、
そうして自分を許すということが必要なのです。
今日は別のお話を書くつもりだったのですが、
なんだかこのお話になりました。
今必要な方に届くといいなと思います(^^)
私自身ももちろんまだまだ発展途上ですが、
生きている間は成長と変化のチャンスを
いただいているのですから、
それを生かし、自分なりにこれからも成長したり、
学んだことをこうしてシェアしたりしながら、
皆様と共にこの世界を愛し、
生きることを楽しんでいきたいなと思います^ ^
皆様とのご縁に感謝を込めて。
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